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2016年10月14日 金曜日

私の読書日記33

徳は弧ならず~日本サッカーの育将 今西和男~

 木村元彦

201610142012年8月23日、FC岐阜の社長今西和男氏(以下敬称略)が突然解任されました。いったい、あの時、何が起こっていたのか。

2007年、広島出身の今西にとって何の縁もゆかりもない岐阜に、三顧の礼で迎えられFC岐阜のGMに就任、その後請われるまま社長にもなり、Jリーグが掲げる地域貢献という使命をどのチームよりも熱心に追求してきた岐阜県の恩人がなぜ斬られなければならないのか。私の頭の中にあの時からずっと疑問が残ったままでしたが、今般スポーツジャーナリストである著者の取材により諸々の事情が明らかになってきました。本書はそれらの事情だけでなく、今西和男のこれまでのサッカー指導歴を中心に、その人となりを紹介するものです。

(概要1 FC岐阜以前)

 今西は1941年広島市生まれ。1945年8月の原爆投下の日は広島市内で被爆。今も身体にはケロイドが残り、左足は自在にボールを蹴れない。そんな今西であったが高校2年時にサッカーを始め、技術が劣るところを体力と勇気で補い、やがて有力選手となり、東京教育大(現筑波大)に進学してもサッカーを続け、社会人サッカーチームを持っていた東洋工業(現マツダ)に入社。

 東洋工業での選手生活は短かったが、引退後福祉課や営業マンを経験。福祉課では7500人にもなる社員寮の社員の面倒を見、営業では1年間で125台を売ったトップセールスマンだったこともある。1982年にサッカー部副部長としてサッカー部に復帰、名門東洋工業の再建を託される。

 今西は総監督としてチームの運営には関わるが、現場はオランダから招聘したハンス・オフト(後の日本代表監督)に任せた。この時の今西の立場がゼネラルマネージャー(GM)であり、今西は日本初のGMと呼ばれる。

 1993年Jリーグ創設時にはプロ化し、サンフレッチェ広島として参入、1994年Jリーグ制覇。その後は日本サッカー協会の強化委員を務めるなど、日本サッカーの強化にかかわってきた。

(概要2 FC岐阜以降)

2007年、FC岐阜GM就任時、クラブは会社としての体をなしていなかった。資本金は200万円、債務超過は2,億円。Jリーグへの加盟申請も条件が到底満たないため、承認されず。今西はチーム強化だけでなく、資金繰りまでも見なければならなくなる。同年、チームはJFL3位となり成績としてはJ2昇格の条件を満たしたが、肝心の経営面の審査が厳しく簡単にはJリーグ加盟を認められない。Jリーグ側が出した条件が、今西の社長就任であった。それだけ今西に対する信頼はサッカー界の信頼は厚かったのである。社長になることは債務の保証人になることも意味したが、サッカークラブが地域に貢献できるようになれば、と引き受ける。この決断が後々禍根を残すことになる。

 Jリーグはその後、クラブライセンス制度を導入。一定期間内に財務状態が改善されないクラブに対しては、ライセンスを下ろさないル-ルが敷かれた。FC岐阜はこのルールに抵触し、存続の危機に瀕する。この時外部からJリーグに入りライセンス制度をつくったメンバーたちが今西降ろしを画策。FC岐阜の人事に介入し、今西退任をライセンスを交付する条件とした。県、市、財界が一体となってFC岐阜を支援しようと決めたその日に、Jリーグ側は今西の退任を求めてきたのである。県、市ともそれを認めざるを得なかったのであろうか。

(感想)

 タイトルにある「徳は弧ならず」とは論語にある言葉で、日常から徳を積んでおけば、そのときは報われないことがあるかもしれないが、将来きっと理解され、その努力が芽を出し花が咲く。孤独のようだが決して一人ではない。見ている人は必ずいる、という意味です。この言葉を今西に教えたのは岐阜の財界人とのことですが、まさに今西の人柄にふさわしい言葉です。

 今西は多くの選手や指導者を育てました。Jリーグだけを見ても、広島の森保一、川崎の風間八宏、清水の小林伸二、長崎の高木琢也などが監督として活躍しています。岐阜では不幸な結果となりましたが、今西が岐阜で播いた種は将来きっと大きな花を咲かせてくれると思います。

(M.T@総務部)

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