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2014年10月2日 木曜日

私の読書日記22

修羅走る関ヶ原

山本兼一

t20141004多くの作家が題材にしてきて、今更「関ヶ原」について書くことがあるのかな、と思って手に取ってみましたが、これがなかなか面白い。章立てがユニークで、各章タイトルは全て武将の名。各章ごとにその武将があの日、あの時、どんな心理状態だったのか、何を考えて戦ったのか、を克明に描写し、それでいて章を進めながら時間の経過と戦況の変化に矛盾なく関ヶ原の激闘が展開される。見事な構成力です。

(あらすじ)

 慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原に陣を敷いた西軍8万4千、東軍8万の大軍勢。西軍の大将格、石田三成は前夜の大垣城での軍議で出た家康陣地への夜襲案を退け、あくまでも正面から正々堂々と家康を成敗することが重要だと正論を押し通して関ヶ原に布陣。自身の正当性にいささかの迷いもなく、清々しく戦いの朝を迎えた。

 一方の東軍を率いる徳川家康は、今日まで、敵方の武将に対しあの手この手で調略の手を延ばし、用意周到に駒を進めてきた。できることは全て手を尽くし、準備万端、負けることは絶対にないところまでやりきったはずなのだが、戦いを前にしてまだ不安であった。寝返りを約束した小早川は本当に西軍を攻撃するのか。戦いに参加しないことになっている毛利は本当に約束を守るのか。

 各武将も様々な思いでこの地にいた。三成との友情ゆえ参戦した大谷吉継はこの地を死に場所と決めている。その三成憎しで家康に従った福島正則は、家康が戦いに勝った後、豊臣家をどう処遇するのか、不安でならない。

 小早川秀秋は三成、家康双方から誘いをかけられ、双方に義理がありどちらについて良いかわからない。臣下にも両論あり苦悶している。毛利秀元も父輝元が西軍の総大将に祭り上げられてはいるが大阪城に残ったまま。家臣団は分裂し、この地においてもまだ陣内で激論が戦わされている。

 この他、宇喜多秀家織田有楽斎島左近加藤清正竹中重門(竹中半兵衛の子)、黒田長政吉川広家らの様々な思いが描写される。

戦いを前に、石田三成から密命を帯びた土肥市太郎市次郎の兄弟(この二人はおそらくこの小説の創作上の人物)。兄は小早川の裏切りを防止すること、弟は毛利を参戦させることが使命である。市太郎が戦場を迂回しながら小早川の陣内にたどり着いた時、既に戦端は開かれていたが秀秋は動こうとしない。家臣には、西軍を裏切ることは義に反すると説く武将松野主馬もいたが、大勢は裏切りに決していた。

一方、弟市次郎は毛利陣に入り参戦を迫るが、安国寺恵瓊以外全て家康に取り込まれており、万時休す。やむなく、二人が取った行動は・・・・。

(感想)

天下分け目と言われた関ヶ原の戦場は岐阜県内。現地へ行けば各陣地跡がしっかりと遺されており、古戦場巡りがウォーキングコースにもなっています。特に三成が布陣した笹尾山は関ヶ原全体が一望でき、当時の戦闘がどんな風に展開されたかを俯瞰できます。

数年前、私もコースに沿って歩いてみました。印象深かったのは大谷吉継の墓です。関ヶ原の戦場からはかなり山の中に入っていますが、近習だった湯浅五助が吉継を介錯後、首が敵に見つからぬよう、山深く入り埋めたとのことです。

三成と吉継の友情は有名です。欲得で動く戦国時代にしては珍しく、自らの損得よりも三成への友情を選んだ武将です。

この小説にも、吉継は死を前にして三成の使い番である市太郎に東軍の福島正則への手紙を託す場面があります。三成も吉継も、そして福島正則も豊臣家の将来を思う気持ちは同じだったのです。

作者山本兼一はこの作品を遺作として、今年2月に亡くなりました。おそらくは自らの死を意識しながらこの作品を書いたのだろうと思います。各武将の死に様を描きながら、自分の死に方を考えたのであろうと思われ、胸に迫るものがあります。

(M.T@総務部)

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