私の読書日記34

2016年11月30日 水曜日

聖(サトシ)の青春

大崎善生

2016120111998年(平成10年)、29歳で逝った将棋界の鬼才、村山聖八段の生涯を描いた作品です。今、松山ケンイチ主演で映画が公開されています。私は彼の名は知っていましたが、今回読んでみてその生涯の壮絶さに驚き、感銘を覚えました。将棋に全く興味がない人でも、一人の若者の生き方から強烈な刺激を受けることと思います。

<あらすじ>

 村山聖は1969年(昭和44)広島市に生まれた。5歳の時、腎ネフローゼという難病にかかり、小学校5年まで国立療養所に入院し、院内学級で勉強することになる。入院していた同室の子供がある日、突然いなくなることを日頃から見ていた村山は、死というものを身近なものと感じる多感な子供になっていった。父がそんな息子の気晴らしになればと児童書やゲームを差し入れる内、一冊の本に村山は引き付けられる。それが将棋の解説本であった。それからというもの、村山は父に将棋関連の本ばかり差し入れを要求するようになる。病室では一日中、本を片手に盤上の将棋の駒を動かし、将棋の研究に没頭する。

 10歳の頃、外泊許可をもらい将棋教室へ通うようになると、一度も実戦経験がなかったにもかかわらず、メキメキと頭角を現し、11歳の時中国こども名人戦に優勝(その後4連覇)。その頃より中国地方一帯に名前を知られ始める。この頃から村山も強烈にプロを意識するようになり「プロになりたい」「名人になりたい」「谷川(名人)を倒したい」が口癖になる。

 両親は「この身体ではどう考えてもプロは無理だ」親族会議を開いてまで断念させようとしたプロ入りだったが、逆に強烈な自己主張で親族までも説得し納得させてしまう。

1982年(平成57年)、中学1年で森信雄六段を師匠として入門。翌年、奨励会(注1)に5級で合格、プロの卵となった。

(注1)奨励会とは、棋士の養成機関。各級から三段まであり、三段から四段に昇級するとプロとなる。各級各段毎に厳しい年齢規定があり、その年齢までに昇級できないと強制的に退会となる。

 奨励会入会後も、体調は一進一退で入院のため何度か休会している。それでも5級から三段までをほとんどノンストップで通過し、1986年(昭和61年)11月、17歳で四段に昇級し晴れてプロとなった。奨励会入会からプロ入りまで2年8か月は谷川や羽生を上回るスピード出世だった。

その後も快進撃は止まらず、順位戦(注2)の各級を驚異のスピードで通過し1995年A級に昇級、八段となり名人位を射程に捕える。

(注2)プロ棋士は全員、C2~1組、B2~1組、A級の5つの級に分かれ、級が上がると1段昇段しA級が八段。A級リーグの優勝者が名人に挑戦できる。

 一方、病気の方は全く快方せず、この快進撃の間も何度も入院、退院を繰り返し、不戦敗や病室から対局場へ行くこともしばしば。1局対局すると体力を消耗し、2~3日動けなくなり、自宅アパートでひたすら安静にするしかなかった。

 A級に昇級後、体調が悪化し、1997年にB級に降格。この時、膀胱癌が見つかり、片方の腎臓と膀胱を摘出する手術を受ける。生殖機能も失われた。1か月の入院後、医師の反対を押し切り、看護師に付き添われながら、棋戦に復帰。1年でB級を突破し、1998年(平成10年)A級復帰が決まった。

 その年の2月、村山は医師より非情な宣告を受ける。癌が再発していたのだ。村山は決められた戦いをこなしながら、翌期の休場を決め将棋連盟に届け出る。自身の最期を悟ったのだろうか。

 5月、再度入院したがもはや手術は不可能、放射線治療のみであった。そして8月8日、息を引き取った。最後まで将棋の棋譜をうわ言の様に読み上げ、最後の言葉は「2七銀…」であった。

<感想>

 村山のすさまじい将棋への執念、勝利へのこだわりは、自身の病気と直結しています。幼い頃から常に病気と闘い、死と隣り合わせにいた村山は、「自分には時間がない」ことを知っていました。だから名人になるためには、1年でも早くプロになり、八段にならなければならなかった。村山には無駄にできる時間は1秒もなかったのです。
 一日、一分、一秒を大切にし、真剣に生きる。そのことを村山は私たちに教えてくれています。

 一方で村山は、命あるものに優しい目を向けます。動物や植物、自分のように病気に苦しむ人、障害を持つ人たちは他人のようには思えなかった。草花を切って飾ることさえ嫌がります。こういう純真無垢なところが多くの先輩から可愛がられ、友人や後輩からは慕われました。友人の一人である先崎六段(当時)の追悼文に胸をうたれます。

https://shogipenclublog.com/blog/2015/04/22/senzaki-7/

(M.T@総務部)